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【東芝の源流】田中久重と藤岡市助――「からくり」と「電気」が出会った軌跡と経営哲学

【東芝の源流】田中久重と藤岡市助――「からくり」と「電気」が出会った軌跡と経営哲学

26/01/30 07:50

東芝の源流は、対照的な二人の天才にあります。一人は「からくり儀右衛門」こと田中久重。75歳で田中製造所(後の芝浦製作所)を創業し、飽くなき探究心で日本の重電技術の礎を築きました。もう一人は「日本のエジソン」藤岡市助。白熱舎(後の東京電気)で国産電球の実用化に成功し、技術の社会実装に生涯を捧げました。 1939年、この「独創」と「応用」を極めた両社が合併し、総合電機メーカー「東芝」が誕生。アプローチは異なれど、「技術で人々の生活と社会を豊かにする」という共通の志は、今も同社のDNAとして息づいています。

【東芝の源流】田中久重と藤岡市助――「からくり」と「電気」が出会った軌跡と経営哲学

日本の産業史において、「東芝」という企業の存在は単なる電機メーカーの枠を超え、日本の近代化そのものを象徴しています。その東芝のルーツを辿ると、全く異なる背景を持つ二人の天才に行き着きます。

一人は、江戸の世で「からくり儀右衛門」と呼ばれた稀代の発明家、田中久重。 もう一人は、日本のエジソンと称され、国内初の電球製造を成功させた工学博士、藤岡市助

「重電の芝浦製作所」と「軽電の東京電気」。この二つの巨塔がいかにして生まれ、そして1939年(昭和14年)に一つの大河「東京芝浦電気(現・東芝)」となったのか。二人の創業者の足跡と、そこから読み取れる経営観を紐解きます。

第一章:永遠のベンチャー精神――田中久重(1799-1881)

75歳での挑戦

田中久重の人生は、驚きに満ちています。彼が東芝の源流となる「田中製造所」を設立したのは、なんと75歳の時でした。現代で言えば後期高齢者にあたる年齢で、彼は日本の近代重工業の礎を築くために立ち上がったのです。

「からくり」から「科学」へ

久重は寛政11年、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲(べっこう)細工師の長男として生まれました。幼少期から手先が器用で、「弓曳き童子」や「文字書き人形」といった精巧なからくり人形を製作し、世間を驚かせました。 しかし、彼の才能は娯楽だけに留まりませんでした。50代で蘭学や天文学に没頭し、嘉永4年(1851年)には、和時計の最高傑作とされる**「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」**を完成させます。これは当時の西洋時計の技術を遥かに凌駕する複雑さと美しさを備えていました。

明治維新後、久重は東京へ進出します。政府の要請を受け、電信機などの製造に着手。1875年(明治8年)、東京・京橋に田中製造所を設立しました。これが後の芝浦製作所となり、発電機や電動機といった「重電」分野で日本を牽引することになります。

久重の経営哲学:飽くなき探究心

久重の生き様を貫いていたのは、**「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に成就がある」**という精神でした。 彼は単にモノを作る職人ではなく、「社会が必要とするもの、まだ世にないもの」を形にすることに情熱を燃やしました。模倣ではなく独創。この精神こそが、東芝の技術力の源泉となっています。

第二章:技術で国を照らす――藤岡市助(1857-1918)

エジソンとの出会い

田中久重が「現場からの叩き上げ」なら、藤岡市助は「アカデミズムの英才」でした。 安政4年、岩国(現・山口県)に生まれた藤岡は、工部大学校(現・東京大学工学部)で、電気工学の父と言われるウィリアム・エアトンに師事します。

彼の運命を変えたのは、1884年(明治17年)のアメリカ渡航でした。そこで彼は、発明王トーマス・エジソンと対面します。エジソンから「電気器具は自分の国で作るべきだ」と激励された藤岡は、日本の電気事業の自立を固く決意しました。

白熱電球の国産化への道

帰国後、藤岡は工部大学校の教授を務める傍ら、1890年(明治23年)に**「白熱舎」を創設します。これが後の東京電気**です。 当時、電球はすべて輸入品で高価なものでした。「一般家庭に電気の光を届けたい」という一心で、彼は竹をフィラメントに使った白熱電球の国産化に挑みます。幾多の失敗を経て、ついに製造に成功。やがてタングステン電球、そして有名な「マツダランプ」へと進化を遂げ、日本の夜を明るく照らし出しました。

市助の経営哲学:産学連携と公益

藤岡市助の功績は、技術開発だけではありません。彼は日本初の電力会社である東京電灯の設立にも関わり、電気鉄道(路面電車)やエレベーターの設計など、**「電気の社会実装」に奔走しました。 彼の経営観は、「技術は人々の生活を豊かにするためにある」**という公益性の追求にありました。また、研究室に閉じこもるのではなく、産業界と連携して実用化を目指す姿勢は、現代の「産学連携」の先駆けと言えます。

第三章:大同団結――東芝の誕生

重電機器で日本のインフラを支えてきた「芝浦製作所(田中久重の系譜)」と、電球や真空管で人々の暮らしを変えてきた「東京電気(藤岡市助の系譜)」。 それぞれの分野でトップを走っていた両社ですが、時代の波は「総合力」を求めていました。

1939年(昭和14年)、両社は合併し、東京芝浦電気株式会社が誕生します(1984年に東芝へ社名変更)。 これにより、発電所から家庭の電球まで、電気に関するあらゆる製品を一貫して供給できる巨大メーカーが完成しました。田中久重の「モノづくりの魂」と、藤岡市助の「科学技術の社会実装力」。この二つのDNAが融合した瞬間でした。

第四章:二人の経営観の比較と現代への示唆

二人の創業者は、異なるアプローチで同じ頂(いただき)を目指していました。彼らの経営観を比較することで、現代のビジネスにも通じる本質が見えてきます。

1. 「独創」の田中 vs 「応用」の藤岡

  • 田中久重は、誰も見たことのない機構を作り出す「0から1」のイノベーターでした。彼の姿勢は、他社の真似をしない、圧倒的な差別化技術の重要性を教えてくれます。

  • 藤岡市助は、最先端の理論を実用化し、普及させる「1から100」の事業家でした。彼の姿勢は、技術をいかに市場に適合させ、コストを下げて普及させるかというマーケティング視点の重要性を示しています。

2. 生涯現役の精神 vs 次世代育成の精神

  • 久重は死の直前まで図面を引き、70代で起業するなど、個人の情熱を燃やし続けました。これはリーダー自身の尽きせぬエネルギーが組織を牽引することを示しています。

  • 一方、藤岡は教育者としての顔も持ち、多くの技術者を育てました。組織として技術を継承し、広げていくチームビルディングの視点を持っていたと言えます。

3. 共通する「報国」の理念

二人をつないでいた共通項は、**「技術の力で国を強くし、人々を幸せにする」**という強い使命感でした。 田中久重は「からくり」で人々を笑顔にし、産業機器で国力を高めようとしました。藤岡市助は「電気」で夜の闇を払い、生活の質を向上させようとしました。 利益はあくまで結果であり、目的は社会貢献にある。このCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)的な発想こそが、東芝が140年以上にわたり生き残ってきた理由でしょう。

結び:未来へ受け継がれるDNA

東芝のブランドタグラインに込められた「人と、地球の、明日のために。」という想い。これは、田中久重の飽くなき**「創造への情熱」と、藤岡市助の「社会への献身」**という二つの源流から湧き出ています。

現代のビジネス環境は激変しており、東芝自身も数多の試練に直面してきました。しかし、創業時のこの二人の物語に立ち返る時、そこには困難を突破するためのヒントが隠されています。 「高齢を言い訳にせず挑戦する」 「海外の技術を学び、自国のために昇華させる」 「技術と生活を結びつける」

田中久重と藤岡市助。二人の巨人が遺したこの精神は、東芝のみならず、ものづくり日本が再び世界で輝くための羅針盤となるはずです。


【参考情報:東芝未来科学館】

神奈川県川崎市にある「東芝未来科学館」では、田中久重の「万年自鳴鐘(レプリカ)」や創業期の白熱電球など、二人の偉業を肌で感じられる展示が行われています。歴史と最先端技術が交差するこの場所は、ビジネスパーソンに新たなインスピレーションを与えてくれるでしょう。

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前田 恭宏
前田です

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