
日本電気産業界の巨星・名取和作
日本近代化の巨星・名取和作 名取和作は、古河財閥の重鎮として富士電機を創業し、日本の重電産業を切り拓いた先駆者です。1923年、関東大震災という逆境下で独シーメンス社との提携を断行。**「技術の富士」**の礎を築きました。 彼の経営観は**「誠実」と「技術自立」に貫かれ、単なる模倣を排し、日本独自の技術革新を追求しました。その先見性は、後に富士通**となる通信部門の分立にも繋がり、現代のIT社会の源流を作りました。「事業は人なり」と説いた彼の不屈の精神は、今も日本のモノづくりに息づいています。
日本電気産業界の巨星・名取和作:
「技術の富士」を創り上げ、古河財閥を支えた不屈の経営哲学
日本の近代化を語る上で、重電(重電気機器)産業の発展は欠かせません。その中心地の一つである富士電機株式会社(現・富士電機)の礎を築き、大正・昭和初期の荒波の中で古河財閥を技術立国へと導いた人物が、**名取和作(なとり わさく)**です。
彼は単なる経営者ではありませんでした。政界と実業界を繋ぐパイプ役であり、何より「技術こそが国の宝である」と信じ抜いたビジョナリーでもありました。今回は、知られざる巨星・名取和作の波乱に満ちた生い立ちから、富士電機創業の裏側、そして現代にも通じる峻烈な経営観について、詳しく紐解いていきます。
1. 牙を研いだ若き日:政治と経済の狭間で
名取和作は1872年(明治5年)、長野県諏訪郡の旧家に生まれました。信州の厳しい風土は彼の忍耐強い人格を形成しましたが、名取の視線は常に中央(東京)へと向けられていました。
彼は慶應義塾に学び、福澤諭吉の「独立自尊」の精神を叩き込まれます。卒業後は一時期、政界への関心を強め、尾崎行雄(憲政の神様)の秘書官を務めるなど、国家運営の中枢に近い場所で経験を積みました。この時期に培われた**「国策を俯瞰する視点」と「政財界のネットワーク」**が、後の富士電機創業における最大の武器となります。
しかし、彼は政治の駆け引き以上に、実体のある「産業」が日本を救うと確信し、古河鉱業(現・古河機械金属)に入社。ここから古河財閥の再建と発展にその人生を捧げることになります。
2. 「富士電機」誕生の勝負:ドイツ・シーメンス社との提携
名取和作のキャリアにおける最大の功績は、1923年(大正12年)の富士電機製造株式会社の設立です。
当時、日本の電気産業は、日立製作所や芝浦製作所(現・東芝)が先行していました。後発だった古河財閥が生き残る道は、世界最高峰の技術を導入すること。そこで名取が目をつけたのが、ドイツの世界的企業**シーメンス(Siemens & Halske / Siemens-Schuckertwerke)**でした。
富士電機の社名の由来
「富士」という名前は、提携の両翼から一文字ずつ取られました。
「富」:古河(Furukawa)の「ふ」
「士」:シーメンス(Siemens)の「し」(当時の表記で「士」)
しかし、その船出は困難を極めました。設立直後に関東大震災が日本を襲い、東京・川崎のインフラは壊滅。多くの経営者が慎重論を唱える中、名取は**「震災復興こそが、電気の力を必要としている。今こそ技術を日本に根付かせる時だ」**と断行しました。この決断がなければ、今日の日本の電力網の発展は数十年遅れていたと言っても過言ではありません。
3. 名取の経営哲学:「技術は借り物でも、魂は自前であれ」
名取和作の経営観は、非常にストイックかつ合理的でした。彼のリーダーシップを象徴する3つの柱を紹介します。
① 技術自立主義と「工場の寺子屋化」
シーメンスから技術を導入する際、名取は単に図面をコピーすることを禁じました。「なぜ、この設計なのか」という根本的な理屈を理解させ、日本独自の改良を加えることに心血を注ぎました。彼は川崎工場を「ただの製造現場ではなく、技術を学ぶ寺子屋である」と定義し、若手エンジニアを徹底的に教育しました。
② 「誠実」こそが最強の営業である
名取は「製品の欠陥を隠すことは、会社を殺すことだ」と説きました。当時、初期の製品には故障がつきものでしたが、彼は隠蔽を許さず、即座に誠実な対応を行うよう命じました。この姿勢が、後に「重電の富士」として電力会社から絶大な信頼を得る基盤となりました。
③ 財閥を超えた「国益」の追求
彼は古河の人間でありながら、常に「日本という国にとっての最適解」を考えました。競合他社とも時に協力し、業界全体の底上げを図る。名取にとって、会社とは「利益を出す装置」以上に「国を支える基盤」だったのです。
4. 昭和の激動と古河財閥の支柱として
1930年代に入ると、名取は富士電機の社長としてだけでなく、古河合名(財閥本社)の理事としても重責を担います。当時、足尾銅山などの鉱業部門が苦境に立たされる中、名取が育てた電機・化学部門がグループの屋台骨を支える形となりました。
彼はまた、**富士通信機製造(現在の富士通)**の設立にも深く関与しました。 「これからの時代は電話と通信の時代になる」と予見した彼は、富士電機の一部門だった通信部門を分社化。これが後に世界を代表するIT企業へと成長するのは周知の通りです。名取和作は、現代のデジタル社会の「種」を撒いた人物でもあるのです。
5. 晩年と後世への遺産
名取は1940年代、戦争の足音が強まる中で第一線を退きますが、その精神は「富士電機グループ」の中に色濃く残りました。
彼が残した言葉に、**「事業は人なり、人は誠なり」**というものがあります。どんなに優れた技術、膨大な資本があっても、それを動かす人間に「誠実さ」がなければ、その事業は砂上の楼閣に過ぎない。このシンプルかつ強力な哲学は、現代のコンプライアンスやESG経営の先駆けとも言えます。
名取和作は、1959年にその生涯を閉じましたが、彼が創った富士電機は現在も「パワー半導体」や「エネルギーマネジメント」で世界をリードし続けています。
結びに:名取和作が現代に問いかけるもの
名取和作の歩みは、困難な状況下で「何を信じ、何に投資すべきか」を私たちに教えてくれます。
目先の利益ではなく、10年後の技術を重視する。
海外の優れた点を取り入れつつ、独自のアイデンティティ(魂)を忘れない。
危機の時こそ、攻めの姿勢で社会基盤を支える。
「不況だから」「環境が悪いから」と言い訳をしがちな現代において、震災の焼け野原からドイツとの提携を成功させ、ハイテク産業の礎を築いた彼の情熱は、今こそ再評価されるべきでしょう。
前田 恭宏
前田です
