
飯田新七:日本をデザインした百貨店経営の真髄
伝統を「芸術」へ、商いを「文化」へ:飯田新七の経営哲学 高島屋の礎を築いた飯田新七は、古着商から出発し「信用」と「革新」で日本を代表する百貨店へと成長させました。 彼は「正札販売」で価格の透明性を確立し、顧客との信頼を構築。さらに、美術家と共創した「美術染織」を万博に出展して国際的なラグジュアリー戦略を展開しました。日本橋高島屋に象徴される「非日常の体験価値」の提供や、一目でわかる「バラの包装紙」によるブランド戦略は、現代経営の先駆けです。変えるべき手法と変えない信念を両立させた彼の精神は、今も高島屋のDNAとして息づいています。
伝統を「芸術」へ、商いを「文化」へ昇華させた男
――飯田新七:日本をデザインした百貨店経営の真髄
1. 「信用」を資本化する:天保の改革下での逆張り戦略
1831年、天保の飢饉の足音が聞こえる困難な時代に、初代・飯田新七はわずか数坪の古着商から出発しました。当時の小売界は「定価」という概念が薄く、客を見て値段を決めるのが通例でした。 ここで新七が徹底したのは、「正札販売(ワンプライス)」という経営革新です。これは単なる値札の提示ではなく、顧客との間に「情報の非対称性」を作らないという誠実さのブランド化でした。この圧倒的な信頼蓄積が、後に高額な美術品を扱う際の強力な無形資産(グッドウィル)となったのです。
2. 世界を震撼させた「ラグジュアリー戦略」の原点
二代目・新七は、単なる衣類の販売から**「付加価値の創造」へと舵を切ります。 特筆すべきは、1880年代から始まった海外万国博覧会への挑戦です。彼は京都の絵画界の巨匠たちを説得し、下絵を描かせ、それを超絶技巧の刺繍や友禅で表現する「美術染織」を確立しました。 これは現代でいう「ハイエンド・ブランディング」**です。
権威付け: 万博での受賞により「世界のタカシマヤ」という称号を獲得。
逆輸入効果: 海外での評価を背景に、宮内省(現・宮内庁)御用達の地位を確立。 これにより、高島屋は「日用品を売る店」から「ステータスを売る店」へと、そのドメインを再定義することに成功したのです。
3. 都市開発と一体化した「ドミナント・エクスペリエンス」
高島屋の経営を語る上で欠かせないのが、1933年に竣工した「日本橋高島屋」に象徴される、ハードウェア(建築)による顧客体験の最大化です。 当時の日本橋は百貨店の激戦区でしたが、新七(一族)は「全館冷暖房完備」という、当時としては驚天動地の設備を導入しました。
五感に訴える経営: 豪華なシャンデリア、大理石の柱、そして日本初のエレベーターガール。これらは単なる贅沢ではなく、百貨店を「非日常を体験するテーマパーク」へと変貌させるための設備投資戦略でした。
文化財としての資産価値: 2009年に百貨店として初めて国の重要文化財に指定された日本橋店は、時代が流れても減価償却されない「歴史的価値」という参入障壁を築いています。
4. 危機管理と「共生」のリーダーシップ
高島屋の歴史は、幾多の恐慌や戦災との戦いでもありました。 1923年の関東大震災時、高島屋はいち早く被災者支援に動きました。商品を惜しみなく提供し、炊き出しを行う姿は、結果として「高島屋は社会に必要な存在である」というパーパス(存在意義)を世に知らしめることとなりました。 また、二代目は「店員は家族である」という思想のもと、徒弟制度から近代的な教育制度への移行をいち早く進めました。個人の能力に依存するのではなく、組織としての「接客の型」を作り上げたことは、多店舗展開を支える標準化戦略として機能しました。
5. 宣伝の革命:物語を売る「マーケティング・プロデューサー」
飯田新七の先見性は、広告宣伝にも現れています。 彼は日本で初めて「宣伝部」を設置し、単なる商品紹介ではない、ライフスタイルを提案するPR誌を発行しました。
メディアミックスの先駆け: 美人画のポスターや、流行歌とのタイアップ。
バラの包装紙: 1952年に誕生した「バラの包装紙」は、現在でいうアイコニック・デザイン。一目見て「高島屋のギフトである」と認識させるこの仕組みは、顧客の贈答需要(ギフト市場)を独占する強力な武器となりました。
結び:変革し続ける「不変の精神」
飯田新七の経営を紐解くと、そこにあるのは「変えてはいけない信用」と「変え続けるべき手法」の絶妙なバランスです。 現代のデジタルシフトやECの台頭という荒波の中でも、高島屋がその輝きを失わないのは、新七が植え付けた**「時代の一歩先を行く、質の高いサービス」**というOSが、今も全社員の中でアップデートされ続けているからに他なりません。 「商いは芸術である」――。初代が夢見たその理想は、200年近い時を経て、日本を代表する文化遺産として結実しています。

前田 恭宏
前田です
